正福寺について

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正福寺の歴史

白雉2年(651年)粒浦某という猟師が、佐白山を守る白い3つの動物に導かれて霊木を感得し、千手観音像を刻み、三白山三白寺三白院と名乗ります。後に寺号を三白山正福寺と改め真言宗寺院として孝徳天皇の勅願寺となりました。鎌倉初期には身分の高い者達によって観音巡礼は行われ、この頃坂東霊場は作られたのではないかと推測されております。

正福寺は佐白山頂に建った笠間城の祈願寺と定められましたが、後に笠間城が廃藩置県により取り壊され、正福寺は後ろ盾を失います。明治3年の廃仏毀釈の法難に遭い七堂伽藍は焼失。本尊諸仏は難をのがれ近隣寺院に預けられ、昭和5年に現在地に本堂が再建されました。一時寺名を佐白山観世音寺と称しましたが、平成24年に正福寺と改められ現在に至ります。

本尊、千手観音について

千手観音様のご利益は、諸願円満です。民衆に、抜苦与楽(ばっくよらく)をもたらし、信心の篤い者から即悉に救うと、観音経には明記されております。度々お参りを重ねる事でご仏縁をいただく方に、その功徳は多くもたらされます。

ご本尊が創られたのは平安末期と推定されます。運慶の系統の仏師により彫られたという鑑定が、平成30年4月末に確定いたしました。

後に初代笠間城主となる宇都宮氏の子孫である塩谷 時朝は、父親と共に、京都周辺にあった領地から、和歌の名手として盛んに宮中に通い、地方豪族としての成功を目指しました。

地方の政治的不安定を治める為に笠間城を佐白山頂に築く事が決定した時、当時佐白山頂にあった岩谷寺を移転、残った正福寺と佐志能神社が笠間城の祈願所に定められました。氏を変え、笠間 時朝と名乗り、初代笠間城主として笠間城に入城した際、時朝はわずかに2歳でありました。後に時朝は、笠間周辺の主要寺院に、武運を高めるために、沢山の秀作と言われる仏像を納めています。

同時期、京都の宮中での政治的な立場が確立され、時朝は京都の三十三間堂にも、2体の千手観音像を納めました。時朝は、自分の領地を守る祈願所と定めた正福寺にも、城主の祈願所にふさわしいご本尊が欲しいと考え、京都で慶派の仏師に千手観音を彫らせ、正福寺に安置したのではないかと考えられております。

廃仏毀釈で明治3年に当時笠間周辺住民によって焼打ちに遭い、歴史的資料を全て焼失しているのを理由とし、正福寺のご本尊は、笠間 時朝の納めた仏像の一覧表等にいまだ掲載されておりません。寺歴がはっきりしない事を理由に、笠間史(笠間市のホームページ等)には、江戸時代に書かれたとされる書物を頼りに、その時代背景は歴史的裏付けのないまま説明されております。

笠間史は現在、事実として茨城県史に一切引用されておりません。近隣の寺院との領地の争いなどに便乗して、正福寺を攻め滅ぼしたのは宇都宮氏と笠間史にはうたわれておりますが、近隣寺院を近年採掘調査した結果、武器となる物の出土が一切無かった事から、当時発掘調査をされた五浦美術館客員美術員、水戸常陽囈文センターの人気講師でもある後藤 道雄氏により、その歴史的説明において訂正の必要がある事が昨年平成29年に発表されました。

その秋、栃木県立博物館に於いて、宇都宮氏展が開かれるなど、歴史再考の機運が高まり、平成30年4月には、笠間市役所、生涯学習課の主催により、宇都宮氏の歴史、並びに笠間史の訂正を表明する発表会が笠間市公民館で開かれ、多くの笠間市民が足を運び、熱心にその説明に聞き入りました。歴史は、その時代の研究者によって、間違いもあり、その折々で変わる生き物のようなものであります。

縁結び観音について

観音様は、諸願円満を叶えてくださるお役目の仏様です。近年、正福寺のご本尊様は、「とても速く願いが成就する仏様」として、縁結び観音と呼ばれるようになりました。ご縁は結婚などに留まらず、お仕事のご縁、交際のご縁、就職先や進学のご縁など幅広く、熱心にお参りされる方のご縁を結ぶ仏様として人気があります。

拝観について

拝観時間 11月〜3月 9:00〜16:00
4月〜10月 8:00〜17:00
拝観料 外陣拝観 200円
内陣拝観 お一人様 1,500円(2名以上の場合はお一人様1,000円)
ご朱印を授与された方はお一人様1,000円

※内陣の拝観を希望される方は、事前にご予約ください。住職が不在の場合は拝観できない事があります。